掲載日:2026年3月15日

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令和7年度 地図で見る終戦直後の中央区

 昭和20年(1945)8月15日に終戦の詔書(日本のポツダム宣言受諾に関する勅旨)が国民に宣布放送(玉音放送)され、9月2日には連合国に対する降伏文書への調印式が行われて終戦を迎えました。現在の中央区域は、空襲によって大きな被害を受けましたが、終戦後に焼失を免れた区内の建物(学校・病院・百貨店・銀行・中央卸売市場・東京証券取引所・倉庫など)や土地(晴海町・浜町公園など)がGHQ(連合国軍総司令部)に接収され、その一部は昭和30年代まで進駐軍のための施設として利用されました。
 昭和20年(1945)12月、戦災地復興計画基本方針の閣議決定があり、これを受けた東京都は「東京戦災復興都市計画」を決定しました。さらに、翌年の昭和22年(1947)3月15日には、東京都制度の改正(35区から22区に整理統合、直後に板橋区から練馬区が分離して23区となる)に伴って、京橋区と日本橋区の統合計画に関する区議会での決議が成立し、新たに「中央区」として発足することになりました。
 なお、昭和25年(1950)には、インフレの渦中にあった日本経済の立て直しのため、緊縮財政による均衡予算の実施等が進められ、先の都市計画(「東京戦災復興都市計画」)を大幅に縮小した見直しが図られました。同年11月発行の「中央区詳細図」(縮尺7500分の1)をみると、この年に計画変更された復興計画路線の痕跡やGHQに接収された終戦直後の区内の状況などがうかがえます。

終戦直後の中央区の様子

 終戦直後に日本地図株式会社が現地調査の上で作製した「帝都近傍図」には、朱色で表示された戦災焼失区域を見ることができます。中央区域の焼失割合は、旧日本橋区で約50パーセント、旧京橋区は約20パーセントを占めていました。また、その後に作製された「中央区詳細図」には、終戦から5年を経た中央区域における土地利用の状況などが細かく図示されています。

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「帝都近傍図」昭和21年(1946)発行 注記:拡大図(PDF:6,930KB)

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「中央区詳細図」昭和25年(1950)発行 注記:拡大図(PDF:4,296KB)

注記:掲載地図は中央区立郷土資料館所蔵

参考リンク

日本橋地区1

 進駐軍が利用した接収建物は、日本橋川沿いに立つ商業ビルが中心でした。また、終戦直後に埋め立てが進められた掘割には、千代田区との区境を東西に流れていた龍閑川(りゅうかんがわ)や日本橋川から分流する東堀留川のほか、外堀の一部にもみられます。なお、昭和通り沿いに図示された復興計画路線には、当初計画していた広い幅員の道路の痕跡が点線で示されています。

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進駐軍の接収:①本町アパート②三井銀行③東京銀行④国分ビル⑤八洲ホテル⑥野村銀行⑦日本郵船本社
埋め立てられた掘割:⑧龍閑川⑨外堀の一部⑩東堀留川
当初の復興計画路線:⑪昭和通り(幅員100mの計画)

日本橋地区2

 進駐軍による接収が隅田川沿いにあることがわかります。また、終戦直後の埋め立てでは、およそ半分程度まで完了した浜町川の様子が図示されています。なお、当初の復興計画路線は、清杉通りから日本橋人形町を縦断するように計画していた道路の痕跡が点線で示されています。

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地図右側の上下に流れる川:隅田川
進駐軍の接収:①浜町公園内の一部②日本橋浜町二丁目77番付近
埋め立てられた掘割:③浜町川の約半分
当初の復興計画路線:④清杉通りから南北に走る道路計画(幅員50m)

銀座地区

 進駐軍による接収建物は、銀座地区で空襲被害を受けなかった百貨店等の商業ビルが中心でした。また、終戦直後に埋め立てられた掘割は、千代田区との区境を南北に流れていた外堀の一部とともに、銀座地区を縦断する三十間堀(さんじっけんぼり)の埋め立てが進められていることが図示されています。なお、日本橋方面から続く昭和通り沿いの復興計画路線は、当初計画していた広い幅員の道路の痕跡が点線で示されています。

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進駐軍の接収:①松屋銀座店②マツダビル③服部時計店本社④電通ビル
埋め立てられた掘割:⑤外堀の一部⑥三十間堀
当初の復興計画路線:⑦昭和通り(幅員100mの計画)

築地地区、月島地区(一部)

 進駐軍による接収建物および土地利用は、海軍関係施設が置かれていた中央卸売市場を中心とするエリアでした。また、当初計画された復興計画路線は、日本橋の清杉通りから八丁堀を通って南北を縦断するように計画していた道路の痕跡が点線で示されています。

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進駐軍の接収:①築地病院ほか②中央卸売市場③海軍経理学校④中央食糧営団倉庫ほか
当初の復興計画路線:⑤八丁堀方面から南北に走る道路計画(幅員50m)

佃・月島地区、明石町地区

 進駐軍による接収建物は、空襲被害を受けなかった明石町エリアの病院や学校などが中心でした。また、このエリアには、終戦後も続いた佃と湊地区を結ぶ佃島渡船(昭和39年まで運航)の航路が図示されており、周辺の掘割は未だ埋め立てが進んでいないことがわかります。なお、八丁堀を通って南北を縦断するように計画していた道路の痕跡が点線で示されています。

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進駐軍の接収:①民間倉庫②明石小学校③聖路加国際病院
隅田川の渡船:④佃島渡船
当初の復興計画路線:⑤八丁堀方面から南北に走る道路計画(幅員50m)

お問い合わせ先

区民部地域振興課 

〒104-8404 築地一丁目1番1号 本庁舎7階

電話:03-3546-5338

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